2月26日に“ちぐさ”で第7回目となるSaturday Afternoon Jazz Partyを開催しました。12月29日に97歳でお亡くなりになった瀬川昌久さんを偲ぶ会として称したところ、瀬川さんのご人徳なのか、小ぶりなちぐさ店内が立錐の余地もない盛況でした。
瀬川さんは2歳から3歳にかけて(1925~26年)一年ほど父君のロンドン駐在に同行され、そこで初めて覚えた曲がジェローム・カーンの「Who?」だったという根からの洋楽耳の持ち主で、それがジャズやミュージカルを生涯をかけて愛好し研究する素地を作ったのでしょう。
太平洋戦争が開戦した1941年12月8日。学習院高等科在学の17歳だった瀬川さんは、東京帝国大学受験を控え猛勉強の最中でした。この夜、瀬川さんはトミー・ドーシー楽団の演奏する「カクテルズ・フォー・トゥー」を大音量で聴いて父君からたしなめられたといいますから。若いころからの彼のジャズ好きには太い一本筋が通っている。
一般国民はこの日の朝7時のNHK臨時ニュースで「大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」という報道に続き、真珠湾攻撃の戦果を知らされると祝賀気分で沸き返ったといいます。その夜に当時官憲から「堕落退廃の極み」と決めつけられていたジャズ(トミー・ドーシー)ですから、流石に父君も多聞をはばかられたのでしょう。
めでたく東京帝大経済学部に入学した瀬川青年は、1944年二十歳の時に学徒動員され海軍主計少尉に任官。敗戦後の9月からは、マッカーサー司令部の命令でニューギニアやラバウルで抑留されていた旧日本兵の復員事業に従事。病院船として使われていた氷川丸に乗り組み彼らを横浜港に連れ帰る仕事をされています。このとき瀬川さんは医師、看護師、操船を行う旧海軍兵を慰めるために、日劇からバンドとシンガーを呼んで帰港中の氷川丸で船上コンサートを企画しています。
東京大学に復学して卒業後、瀬川さんは富士銀行(現みずほ銀行)に入行。提携関係にあったファースト・ナショナル・シティバンク出張を命じられニューヨークに赴いたのが1953年6月のことでした。これが実に微妙なタイミングで、サンフランシスコ平和条約により日本の主権が回復(52年4月28日)した翌年のこと。日本人のアメリカ出張などほとんどなかった時代です。まだ20歳代の青年銀行マンだった瀬川さんはこの時代のニューヨークを堪能します。
昼はマンハッタン・ミッドタウンの銀行で仕事をし、夜はコンサート、ジャズ・クラブ、ブロードウェイ・ミュージカル(『南太平洋』を続演4年目ご覧になっています)に足を運び、アッパーウェストの宿舎には地下鉄代節約のために歩いて帰ったと伺ったこともあります。仮にタイムズ・スクェアから歩いたとして4〜5㎞はありますから1時間はかかったでしょう。
彼はここでビリー・ホリデイ、チャーリー・パーカー、クリフォード・ブラウンなど来日することのなかったミュージシャンを聴くのです。彼らのライヴを聴いた日本人は皆無とは言わないまでも希少であることに間違いはありません。瀬川さんは1956年から3年間二度目の出張も経験。『真夏の夜のジャズ』として有名になるニューポート・ジャズ・フェスティヴァルにも足を運ばれました。
“偲ぶ会”では、このような瀬川さんの来歴を辿りながら音楽評論家の村井康司さんとの対談をお聞きいただきました。瀬川さんが最も興味を持たれていたクロード・ソーンヒル、ギル・エヴァンスを中心に選曲したので、お客様が普段はあまり聴くことの少ない音源もあったでしょう。ソーンヒルの目指したサウンド、ギルの緻密に書き込まれたアレンジの素晴らしさ、これを6菅3リズムで表現しようとしたマイルス・デイヴィスの着眼。
村井さんの明晰な解説には多くの方が頷きながら聞いていらっしゃいました。ちぐさの音響も素晴らしかったです。ご協力いただいた皆様、ご来場いただいたすべてのお客様に感謝申し上げます。
Saturday Afternoon Jazz Party、3月はお休みとさせていただきますが、4月はまた魅力的なゲスト、テーマを設けてお送りいたします。どうぞお楽しみに。